Tsubasa Oshiro
大城 翼
Tsubasa Oshiro
2000年 5月 父の転勤先
東京の東久留米で生まれたらしい
その3年後に沖縄に帰省して
私の一番古い記憶は保育園のときからで
それでもずっと東京で生まれたという
ちっぽけなプライドが 沖縄への嫌悪感に繋がっていた
小学生のときは あまり社交的でもなくて
家にいる時間は長かった
いくらか問題を起こして 母親を泣かせてしまっていた
中学生のときに覚えているのは
父からよく「ズレてる」「常識的に考えろ」と怒鳴られてたことで
当時の私はだいぶひねくれていた
でも そもそも普通とか当たり前ってなんだよって考えは 今になっても変わらない
SNSもやり始めて 思想の押し付け合いが飛び交って
まず物事の本質はなんだとか この争いになんの意味があるんだろうって考えたりしてた
高専に入学したら すぐ近くに辺野古基地があった
同調圧力の強さを ひしひしと感じてて
問題について考えようってよりも 反対しようって言われてるようだった
それをSNSで発言してみたら 割と拡散されて自分の考えすらも道具にされてるようだった
たしか18ぐらいのとき 個展をやろうとしたきっかけになったのは
そのときは どっちかというとカメラマンみたいな感じで
ライブ写真やポートレートをよく撮ってて アートとしてはやってなかった
とある展示会 ひとりの少女をテーマにしたアート展 漫画や写真・絵画でそこ子を表現していた
最初は 展示をみて終わるつもりだったけど そのあとパーティーがあるからと流れで参加
たくさんの人が集まって 作品を中心にみんなが楽しそうにしていた 憧れた
そういえば 私は企画ごとが好きで それから参加した人たちの反応をみるのが好きだった
そして 一年後 19歳の時 はじめて個展を開催した
あの展覧会に憧れて 私もひとりの少女を撮り続けて 個展を開催しようと考えていた
けれども 当時の私はめちゃくちゃで 結局その子とは 縁が切れてしまった
でも 当時から情景描写するような写真を撮っていて
感情に任せた写真を並べて「情動」 とタイトルをつけた
第一回ともあって たくさんの人が来た
はじめて写真が売れた
これがやりたかったと実感した
ただ ひとりのお客様が 「これでエモーショナル?もっとすごい人がいるよ」
とおっしゃってて 頭を悩ませたのは覚えてる
そこから写真家のことを知っていき、何度も個展を開催した
そうしたら 写真だけではなくて 絵や詩 彫刻 イラスト いろんな世界を知っていった
でもそのときは 写真だけが自分の表現にしかなくて 他の表現をするのが怖かった
写真のテーマは 一回目の個展から 感情表現が中心だった
けど それだけでは自己満足にしかならないと誰かに言われて 模索し続けた
そんな時 キヤノンのフォトコンテストでアンダー30部門で金賞をいただいた
講評の言葉が印象的だった
「後悔」というタイトルだが 「航海」とも読めて面白い
こういう自分がしたい表現の余白が写真の好きなところで 狙って使いたいと思って
「劇場」というタイトルに「激情」をかけて 走馬灯をテーマに 三回目の個展を開いた
ひとりの少女の面影とスナップ写真の合間に 抽象的な写真を挟み 記憶の混濁を表した
そのときに撮った抽象的な写真が自分の中ですごく気に入っていた
この個展を開催したのは2021年3月
コロナ禍ということもあり お客様もそこまで呼べず 同テーマで二回目を開催した
1週間も期間を設けて開催して いろんな感想をいただいた
いつか展示をしてみたいと思っていた平敷兼七ギャラリーから機会をもらえた
そこで、第二回の個展の際にお化け屋敷をイメージした個展で懐中電灯で照らしてみる展示を
行っていたこと が話題に上がり できる部屋があるからどうか と提案された
増えていく私の作品を知ってくださっている方々からもまたみたいという要望は多かった
なんのテーマも決まってない中で、展示方法だけが決まった
あとさき考えていない無謀な挑戦だったが ここがある種の原点だったようにも思う
第三回の個展「劇場」の抽象的な写真を中心に作ろうと思った
思えば 初めて買ったカメラはミラーレス 一眼レフと違ってファインダーに映るのはモニターの映像で
シャッターを切らずとも ブレるし ボケる 片目には 非現実が広がってた
だからあの頃の自分にとってのカメラは ささやかな現実逃避AR
それで”写真に現実なんて映らない“を証明しようとしていた
今思えば 躍起になっていたようにも思う
「現実」 とタイトルをつけた第四回の個展
ギャラリーのオーナーさんがいろんな人を呼んでいただき さまざま課題が見えてきた
そして4か月後 第五回目の個展 「Trip」を2022年5月に開催した
個展を開催し始めてから ワークショップに参加してお世話になっていた
INTERFACE- Shoumei.Tomatsu Lab. で開催できた
私がカメラを現実逃避に用いる間、過集中になっていたことを
麻薬やお酒の酩酊状態のようだと思い そこかけて「Trip」というテーマにした
このとき、ようやく私がADHDであることを公表した
「Trip」の作品集は 当時の私の自信作で 就職で上京してからも制作を続けていた
ポートフォリオにして さまざまな人に見てもらった
しかしながらもあまりに個人的な問題だということも気づいた
そして どうあがいても現実の一端は写ってることを思い知った
簡単な話でいえば 沖縄で撮った抽象的な写真と 東京で撮った抽象的な写真で 違う匂いは漂っている
見る人によっては どこで撮ったか なにが写っているか どう撮ったか
それを見透かす人はいるわけで
どんな感情で撮ったかまで 浮き出してくれる人まで出てきたり
写真というものを扱う以上 記録性は完全には消えないし
作為性が入るからこそ現実を正確に映しているわけでもなかった
2022年からテーマを見失っていた
頭の中には 現実とは という思考がぐるぐると回っていた
写真はスランプになりながらも撮っていて それでも方向性は定まらなくて
逃げるように現代アートの展示や抽象画に惹かれていた
それと同時に 写真は0から1を作れないことが もやもやした
なにかできないかと ワイヤーを使って木のようなものなら自分でもできるかと思って
近所のホームセンターでさっそく作った
けれども 結局 被写体となった
なるべくしてなったかもしれない
ワイヤーで作った木のようなものに ビー玉をのせたものが一作目
ちょうどそのとき 好きな作家の展示会でプリズムが売られていた
カメラに使われていることや光の分散については知っていた
ただ 実物は触ったことがなかった
プリズムを通して世界を見た プリズムに光を当てた 彩られた
モノトーンが多かった写真が変わったのはそれからだったと思う
そしてプリズムは ワイヤーの造形物にしっかりハマった
もともと光を撮るのが 好きだった
個展に来てくれた方々も 光の印象を強く受けると言っていた
必然的だったかもしれない
もともとアウトドアな人間でもなく 撮る被写体も日常の中に存在していた
雪が降るような時期 軽度の鬱状態だったことが発覚した
沖縄から上京して 寒さに慣れてないこともあり 土日は家に篭ることが多かった
そういう状況だったからこそ ワイヤーでの制作は捗った
確かそれくらいのとき 親しくしていただいた恩人が全国区の事件を起こした
友達から電話で報告を受けて 流し見してたニュースが背後に立った気がした
翌日 出勤できなかった
次の日に出勤したら 上司から
「気持ちはわかるけど 会社のコンプライアンスも考えてね 今後もこういうことあるからね」
って言われたけど 私にはどうにもできなかった
生活は続けていた けれどなにかが抜け落ちていた
2023年5月 銀座で第七回になる個展は決まっていて そのテーマを考えることもできなかった
中学の時の担任が言ってたことを思い出す
「高校生の時に 家に帰ったら母親が首を吊っていた そんな現実が起こることもあるんだよ」
落ち着いた頃 お世話になっていた写真家に、顛末と個展の話をした そして聞かれた
どうだった?なにを感じた?なにを思った?君はどうした?
思い出した
楽しくも煩わしかった研修の帰り
ふらっと寄った馴染みの駅のデパ地下の道沿いで
電話があって
立ち止まったまま動けなくて
喧騒が遠く離れて空白
現実に戻って
相手がどんな顔をしていたのかは 返答で分かった
激しく動悸がしていたことの気づく
数ヶ月は経っていた
でも傷は深かった
展示に用意していた写真を見せた
綺麗な写真ばかりで 落ち着こうとしてるように見える と言われた
事件の報せを受けたあとの写真を見せれば
「この写真の羅列をそのまま羅列して 今の状況を説明した方がよっぽど形になる」 と言われた
5月 銀座での個展はタイトルすら決まらず 延期になった
そして 第六回の個展を開かせてくれたギャラリー兼バーのオーナーが亡くなった報せを受けた
搬出のとき 「お前のやりたい写真なんて誰でも撮れるわ こんなん写真じゃねぇ」
とTripと名付けた当時の自信作を見せて言われて 口喧嘩になった
でも最後は 「いつかおまえがやりたい展示やらせててやるよ」って言ってくれたけど、
そのあとから忙しくてなかなか行けてなかった
近々 友達を連れて行こうと思ってた
けれど 行けなかった
行きづらくて先回しにしてたら 機会はこなかった
平静を装って仕事をして 休日も友達に会って平静を装って ガタがきて限界を感じた
休みたいって言ったら 上司は優しく トントン拍子に休職が決まって
甘えてみたら両親に甘く考えすぎと言われてしまった
なにもやることがなくなって 思考だけが動いてて 家から出れず それでも写真は撮っていた
ワイヤーで作った造形物にのるプリズムは 部屋に差し込む太陽光を分散し 部屋を彩った
漂っていた鬱蒼とした空気が霧散した
テーマを考えていたときに考えていた作為性と無作為性という言葉が頭に浮かんだ
写真にいくら偶然性を取り込もうと 作為性は0のはならない
1からモノを作るなら余計に作為性が纏わりついた
非現実を表現しようと試みても あくまで偶然性を取り入れて 加工は最低限
現実に存在する非現実を写そうとしていた
ワイヤーにプリズムを置いた作品なんか特にだ
手先の器用でない私にとって ワイヤーの曲がり具合は調整できないし
簡単に曲がって 曲がったあとは消えなくて
上にのったプリズムのおかげで見る角度 光のあたる角度で全く違うモノに化ける
それを撮る という行為はまさに 現実と非現実 作為の交差なのだと気づいた
そして 現実でさえもそうだった
起きた物事に対して 自分が作為的に関われることは限られているけれど
それより広い範囲に現実は広がっていく
写真に映る世界は 時間的にも空間的にも微分された現実
カメラの性能も 自分の写真の技術も向上して
抗うように ブレやボケを使い カメラが壊れてもそのまま使った
そんなことしなくても そもそも思い通りにならないものが現実だから
そのまま写し撮っても案外 想定外の光景が撮れてたりする
こういうテーマで沖縄で開いた第七回の個展 「 arbitrary reality 」
この英単語が特に好きで 恣意的 気ままと作為と無作為の両方の意味がある
そんな現実
これが答えと言わんばかりに考えてたとき 写真をやってる友達に
「二項対立」で考えることが多いよね」と言われた
そのあと参加したワークショップでも
セレクトって組み合わせとかストーリーというよりも
色を重ねて絵を描くようなイメージだと言われた
表裏一体が 思考にいつもあったからこそ 考えが固くなっていた
嫌っていた極端にある意味でハマっていた
よくいくギャラリーのオーナーに 7月の個展のポートフォリオと今の思考を伝えた
「これって君の現実だよね 現実って人それぞれ見てる人に違うよね」
当たり前のことを言われた
何回も個展を開いて いろいろんな人の助言を得た答えは 結論なんて出ないということだった
型にはめる行為を嫌っていた私だけれど 型にはめなければ認知ができない
仮定でよくて 正解を追い続ける
けれど正解を決めつけないことが大事で
現実という概念で言えば 昔言われてる夢うつつとか仮想現実とかネット上とかと組み合わせて
多面的とか多次元構造とか考えるのは大事だけれど、表層ですらもないのかもしれない
なんにでも言えることで 答えなんて人それぞれ ケースバイケース 正解なんかありはしない
だからこそ 頭の中は柔らかいまま
答えは あいまいなまま
そうありたい
肩書きだってなくたっていい
いつもなにかしらの思考をしてしまう体質で
そのときどきをアウトプットしていくのは写真であって
立体造形であって 絵であって 言葉であって さまざまな媒体である
ただ結局は 写真に取り憑かれてはいるんだろう
今はそう思う 何者でもない私